寺に参じ、
心を鎮める。
丹沢山系から恵みを受ける田園風景を見下ろす坂にひっそりとある興教寺。この小さなお寺が江戸時代から三八〇年もの時を経てもここにあり続けているのは奇跡的なことです。ここ一〇〇年のことで考えても第二次世界大戦や、関東大震災を含む大規模自然災害など様々な困難がありました。しかし、土着の観音信仰、阿夫利山の恩恵、そして何より浅間山村を中心とした檀家の方々に支えられ、守り抜いて来られたのです。人とそれを取り巻く環境に恵まれたことはまさに奇跡。私たちは数百年つながる膨大な縁を尊び、数百年先も多くの人々の救いとなる開かれたお寺を目指します。皆様を見守ってきた観音様とともにお待ちしております。どうぞお立ち寄りください。
行ずることが、
救いになる
道元禅師様は、「修証一等」修行と証(さとり)は一つであると示されました。さとりとはすべての苦しみから離れた状態、真の幸せを指します。苦から離れる修行そのものが救いであり幸せであるというのです。禅の修行は、厳しく苦しい鍛錬法のような印象が強いですが、禅が仏教である限り、迷い苦しむ人々の救済こそが本来の姿であります。アメリカで曹洞禅の礎を築いた鈴木俊隆老師は「禅の修行で一番大事な事は《二つ》にならない、ということ。」と説かれました。身と心、自分と他人、境をつくって二つにならぬように、執着を離れた坐禅の心で日常を過ごすことが大切だと示されます。十二八日、明けの明星をご覧になったお釈迦様が、大宇宙と隔てのない一つ命を生きていることをさとられたように、我見を持ち込まなければ、草木と一つ命として在る、すべてと一つ命として在ることに気づくのです。本当の自由との出会い、自らを解き放つ坐禅。さあ、はじめてみましょう。